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「コロナ対策」と「緊迫する国際情勢」での改憲が最悪の結果しか招かない理由

 憲法記念日にあわせ、にわかに商業マスコミが改憲を煽る「報道」をはじめました。
 その口実として挙げられているものが二つあります。
 一つは、「新型コロナウイルス対策を迅速に行うため」でもうひとつは「中国の覇権主義的外交や北朝鮮のミサイル発射など、緊迫する国際情勢に対応するため」が理由とされています。
 前者は、自民党改憲草案における「緊急事態条項」を、後者は九条を意味しています。
 では、本当に憲法に緊急事態条項ができればコロナ対策が迅速になり、九条を変えれば中国の脅威に対抗できるようになるのでしょうか。
 そのような事がありません。むしろ、それらを理由に改憲すれば、最悪の結末が招かれること、間違いありません。
 その理由を以下に説明します。

 まず、緊急事態条項というのはどのようなものなのでしょうか。
 自民党改憲草案「九十九条」には「緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。」書かれています。
 要は、内閣が「法律と同効力を持つ政令の制定」「財政上の処分」「地方自治体の長への指示」などを、国会にはからずに行うことができるようになるわけです。
 報道の誘導もあり、これを聞いて、「そうすると、内閣が迅速に新型コロナに対する有効な対策を立案し、実施される」と誤認する人もいるのでしょう。
 しかし、この一年半近いコロナ禍のなか、内閣が何をやったかを見れば、自民党が目指している緊急事態条項がコロナ禍において百害あって一利なしである事はすぐにわかります。

 一番わかりやすい例は、自粛に対する補償案として、内閣が最初に出した「和牛券」です。
 それが反対の声で未然に終わると、今度は「所得が半減した世帯限定の給付金」なるものを言い出しました。
 これは制度設計に重大な不備があり、様々な形で「収入が激減したのに対象外になる人」が生じるものでした。
 結局、最後は、野党の主張した「一律10万円給付」に落ち着いたわけです。
 もしこれが、自民党改憲草案にある緊急事態宣言下で行われたらどうなっていたでしょうか。
 一律10万円給付など行われず、代わりに和牛券が配られたわけです。見直しがあってもせいぜい、「半減世帯限定給付」だったでしょう。

 今でさえ、政府の新型コロナ対策は極めて後手後手かつ、視野の狭さが目立ちます。
 むしろこのコロナ禍で必要なのは、地方自治を尊重し、それぞれの地域に見合った対策を自治体に行わせる事です。
 たとえば、広島県は、県独自の大規模PCR検査を実施することにより、感染拡大を抑えています。
 当初、この計画に対し、政府はマスコミも使って、かなりの圧力をかけました。それが間違いであったことは、結果が示しています。
 もし緊急事態条項があったらどうなるでしょうか。内閣には「地方自治体の長への指示」を行う権限があるので、広島の大規模PCR検査を合法的に中止させる事ができてしまうのです。
 これらの現状を見るだけでも、緊急事態条項が新型コロナ対策にとって百害あって一利ない事は明白です。
 むしろ、現在における、内閣における過剰な権限を削減し、地方に移譲する事が必要なのではないでしょうか。なお、これについては、現憲法下でも十分に行えます。

 もう一つの「中国や北朝鮮の脅威に対抗するために九条改憲」はどうでしょうか。こちらも、最悪の結末しか招きません。
 まず、今の日本が九条を改憲して自民党改憲草案のように「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する」という条項を作ったら、それが何かの抑止力になるでしょうか。
 断言しますが、何の抑止力にもなりません。
 むしろ、日本の軍事的脅威が増大した事を理由に、さらなる軍拡を行ってくるでしょう。それに対抗して、日本もまた軍拡、という悪循環を招くことになります。
 これは軍需産業や防衛施設庁にとっては喜ばしい事でしょう。しかし、その結果、我々一般市民は、ますます「財源がない」という理由で、福祉や社会保障を削られ、税負担を増やされてしまいます。

 さらに、実際に戦争の危険にさらされる可能性はどうなるのでしょうか。
 現在の憲法九条があるなかでも、自公政権は安保法制=戦争法を制定し、海外派兵の道を開いてきました。
 そして、現在、自民党の幹部は「敵基地攻撃能力」を進めようとしています。
 先日の日米首脳会談では、中国に対抗する米軍と自衛隊の連携強化が話し合われました。
 そのような流れで九条を変えて憲法に「国防軍」を記載したらどうなるでしょうか。
 万が一、米中戦争などという事になれば、その「国防軍」は米軍の盾としてアジアで使われてしまいます。
 さらに、敵基地先制攻撃などをやってしまったら、相手が攻撃する絶好の口実を与えてしまう事になります。
 ちょうど80年前の1941年、当時の大日本帝国は、ハワイの真珠湾で「敵基地攻撃能力」を大々的に使いました。
 それに対する「反撃」がどれほどのものだったかは、歴史が証明しています。

 なお、当時の大日本帝国憲法は、軍隊の保持が明記されていました。
 そして、敗戦した1945年には、国家予算の7割が軍事費にあてられていました。
 しかし、その莫大な軍事費は、日本に住む人の安全には何ら役立ちませんでした。
 この年、広島と長崎は核攻撃され、他の主要都市も東京をはじめ、度重なる大空襲で多くの人々の命が奪われました。
 それから75年たち、殺戮兵器はより進歩しています。軍隊を増強したり軍事費を増やしたりしても、住民の安全は守れない、というのはより明白になっています。
 そして、軍事力の行使は、その国に住む人に危険をもたらすだけです。
 だからこそ、このような緊迫する国際情勢であればあるほど、憲法九条を守り、他国へ攻めいらない国であり続けることによって安全を守るのが現実的に最善なのです。

 このような情勢であるからこそ、「緊急事態条項」と「九条改悪」が日本にとって最悪の道になる事がより明らかになっています。
 国民投票法改悪など、憲法改悪の動きがさらに進んでしまいました。
 しかし、どんな状況になっても絶対に憲法を変えてはなりません。
 自民党改憲草案のような憲法が実現すれば、日本で暮らす殆どの人にとって不幸を招く結果に必ずなります。そのことを改めて強調しておきます。

 

軍事力で人々の安全は守れるか?

 2020年の年明け早々、アメリカはイランを攻撃し、革命防衛隊幹部を殺害しました。
 それに関するトランプ大統領の談話は「米国は戦争を始めるためではなく、戦争を食い止めるために行動した」でした。
 軍事行動を起こす指導者はこのように、平和や安全のために軍事力を使ったといいます。しかし、本当にそうなのでしょうか。

 軍事力が平和や安全に寄与するのなら、軍事力が大きければ大きいほど、その国に住む人は安心して暮らせるはずです。
 しかし、そのような事はありません。
 昨年暮れの「しんぶん赤旗」には、イスラエルで暮らす人が、ミサイル警報に恐怖をおぼえている体験記が掲載されていました。
 新しい建物ならば「防弾用の部屋」があるそうですが、それがないと、外を歩いてシェルターに避難するよりなくなります。
 警報が出ると、学校も会社も休みになるとのことです。
 ところで、イスラエルは軍事力がないからこのような不安な生活を送らざるをえないのでしょうか。
 もちろんそんな事はありません。イスラエルといえば、核兵器すら保有している軍事大国です。
 その軍事力で、領土を広げたり、パレスチナの土地を侵略しています。
 しかしながら、その軍事力はイスラエルで暮らす人の安全を守るのには役立っていないわけです。

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核抑止論者の青年と対話

 先日、革新懇の宣伝を駅頭で行いました。あわせて、ヒバクシャ国際署名のお願いをしました。
 参加者が交互にマイクを持って、平和・政治・経済・福祉・税金の問題などを訴えました。
 自分は中小業者の話をする予定でした。ところが、マイクを持つと、そこにサングラスをかけた青年が現れました。そして、挑発的な態度で「憲法九条…」と言い始めようとしました。
 もちろん、その人の相手をしては、演説ができません。そこで、青年には「あとで話しましょう」と断った上で、予定を変更して、リクエスト(?)の憲法九条の話をすることにしました。

 憲法九条に否定的な立場を取る人がよく使う言葉に「敵が攻めてきた時に、平和憲法など何の役にも立たない」というものがあります。
 しかし、地球上のどこにも、「敵が攻めてきた時に防御力のある憲法」などありません。
 それは、日本の例を見れば分かります。1890年に施行された大日本帝国憲法は、軍隊に関する規定が詳細に書かれていました。それに基づき、日本は軍事力を行使し、アジアをはじめ、様々な所で戦争を行いました。
 その結果、「敵が攻めて」きたわけです。沖縄では地上戦が行われ、全土が空襲で焼き払われ、広島と長崎には核兵器が落とされました。
 つまり、「交戦権を認めていた大日本帝国憲法は、敵が攻めてきた時に何の役にもた立たなかった」というのが現実です。そうして、大日本帝国憲法は施行後55年で廃止されました。
 一方、その反省を土台に作られた日本国憲法はどうでしょうか。施行されて今年で70年目になりますが、敵が攻めてくる事はありませんでした。
 「敵が攻めてきたら」ではなく、こちらが「戦力」を放棄する事により「敵に攻めてこさせなくする」、それが平和憲法というものです、という話しました。

 青年は、その話をずっと聞いていました。その後、約束通り、お話をしました。
 核兵器については、「北朝鮮が本当に核ミサイルを飛ばすはずはない。なぜならば、そんな事をすれば、アメリカを始めとする世界各国から核攻撃を受けて滅びるから」と言っていました。
 北朝鮮の脅威をひたすら煽る一部マスコミなどよりもずっと冷静です。ただ、冒頭の発言と合わせれば「だから憲法九条ではダメだ。抑止力がなくては守れない」というのが結論なわけです。これには反論させてもらいました。
 そこで、以下のように話をしました。

 核に「抑止力」があると言いますが、抑止力によって実際に使われる危険性がなくなるわけではありません。
 実際、今でも北朝鮮の核が飛んでくる危険性はゼロではないのです。これは、「抑止力」の限界を表しています。
 つまり、核兵器が存在している以上、使われて、何十万人もの人が虐殺される危険性はなくならないのです。
 その危険性をなくすには、国際社会で話し合いを重ねて、核兵器をなくすよりありません。
 実際、既に生物兵器は違法化されています。化学兵器も、シリアの疑惑などはありますが、これも違法化され、所持や使用が国際的に禁止されています。
 ならば、核兵器も同じように違法化することも可能なのではないでしょうか。実際に国連でそのような話し合いがおこなわれています。
 こうやって話し合いを重ねるのが、平和を実現させるための最善の道だと思っています。

 聞き終えると、青年は、サングラスを外し、自分の目をまっすぐ見ました。
 そして、「話につきあってくれてありがとうございました。もしよければ、名刺をもらえませんでしょうか」と言いました。
 名刺を渡すと、「共産党…!」とちょっと驚いていました。彼の持っていた「共産党」の印象が変わったのかもしれません。
 そこで別れましたが、とりあえず、その青年にとって、有意義な時間であったようで、嬉しく思いました。

 そして、この対話をしてから数日後、国連で核兵器禁止条約が締結されました。
 青年は、このニュースを知ったでしょうか。機会があったら、ぜひその話をしてみたいと思っています。