月別アーカイブ: 2005年12月

前回の鉄道惨事の教訓

 春の福知山線に続き、今度は羽越線で死者の出る鉄道脱線事故がありました。乗客数が少なかったため、死傷者の数も多くはありません。しかし、数両が脱線し、事故後一日以上経っても、被害者の捜索が完了しなかったなど、事故そのものの規模はあまり変わらないようです。これがたとえば帰省ラッシュの時期だったらどうなっていたか、と思うとゾッとします。
 前回の福知山線事故は「人災」とか言いようがなかったため、各マスコミもその線で報道していました。しかし、今回は、「偶然の天災」である可能性もあるので、事故原因において人災的な要因の報道はあまりなされていません。事故現場の風についても、「普段は強風がなかった」と「普段から風が怖かった」という運転士経験者の談話を「両論併記」している記事があったほどでした。

 そういう事もあり、あまり知られていないようですが、福知山線の通勤電車と今回事故が起きた「特急いなほ」には象徴的な共通点があります。それは、「競争による速度向上が社の課題だった路線で起きた惨事」という事です。
 大阪-宝塚間でJRと阪急が競争していたように、東京-酒田間では、JRと飛行機の競争があります。そのため、JRにとって、この区間の速度向上は課題だったようです。
 そのため、JR東日本がダイヤを改正する際、「東京-酒田間の所要時間の短縮」を宣伝する事は少なからずありました。今年の12月に行われたダイヤ改正に関するJR東日本新潟支社の発表で、一番最初に出ていたのも、上越新幹線を経由して乗り換えた時の「東京-酒田の最短時間が4時間42分から3時間55分に短縮した」でした。この短縮は、主に上越新幹線のダイヤ見直しによるものではあります。とはいえ、その際に、接続する「いなほ」の新潟-酒田間の所要時間も3分ほど短縮されています。
 そのような「スピードアップの掛け声」は、今回の「強風下で運転を再開するか、運休覚悟で待つか」という判断を下すにあたって何ら影響がなかったのでしょうか。

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小泉首相の「理解」力

 小泉首相は、就任してから毎年必ず靖国神社に参拝しています。そのたびに、内外問わず厳しい批判が起きます。その参拝が政教分離に反する事争った裁判では、高裁で違憲とする判決も出ました。かつての被侵略国でも、反発が相次ぎ、中国や韓国をはじめ、外交でも重大な問題となっています。その深刻さは、かつては関心を持たなかった、小泉首相の「宗主」であるアメリカまでが問題視するほどになっています。
 それほどの問題になっているにも関わらず、靖国参拝批判に対する小泉首相の発言は判で押したように同じで、「自分は平和を願って参拝している。批判する人は理解できない」というものです。批判する相手が日本の一市民だろうと、外国首脳だろうと変わりはありません。
 今更言うまでもない事ですが、靖国神社は「平和を祈るための神社」などではありません。天皇制政府のために戦って死んだ兵士・戦争遂行者などを「神」として祭る事により、「お国のために戦死するのは名誉な事だ」という事を、これから戦地に送られる人に教え込むための存在です。現代でも、神社の公式サイトを見ても分かるように、そこに流れている思想は「日本政府が行った戦争は基本的に正しい。そしてその戦争のために死ぬ事は崇高な事だ」というものです。

 つまり、靖国神社には世間一般でいうところの「平和」とは対極的な思想が流れています。したがって、その神社に「平和のため」といいながら参拝しつづける小泉首相にとっての「平和」という概念も、世間一般での「平和」と考えざるをえません。
 なにしろ、自分が送り込んだ自衛隊員が、米軍の兵站活動をを通じてイラク人の虐殺に協力している真っ最中に「不戦を誓う」などと発言するほどです。おそらくは、彼にとって、「平和」というのは、アメリカの軍事戦略がうまくいっている状況を言うのでしょう。戦火が交えられているとか、そこで人が死んでいる、などという事は関係ないのです。
 もしかしたら、「1945年に日本は平和になった」という歴史的事実についても、「日本人が戦争で死ぬ事がなくなったから平和になった」ではなく、「アメリカが完全勝利を達成したから平和になった」と認識しているのかもしれません。
 とにかく、「平和」の概念が違うわけです。したがって、「戦争によって一般市民が不当に死なないのが平和」と考えている人々が、首相の戦争奨励神社への参拝を批判して裁判を起こす事について、「理解」などできないのも仕方がないのでしょう。

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貧しいと清らか?

 右翼テロ団体の最高顧問を務め、「国のために死ねる人を育てるのが教育だ」という発言を筆頭に、戦前回帰思想を公言していた民主党の政治業者が、「非弁活動」なるものにからんで逮捕されました。これに関する記事で、二つほどの新聞が、ちょっと変わった論調を書いていました。
 一つは東京新聞で、今回のような暴力団まがいの方法による「政治資金調達」問題で逮捕された人に対し、「金にクリーン」なる言葉を二回も使っています。さらに、「質素な生活」「服装がヨレヨレ」だったなどとも書いています。また、WEBでは削除されましたが、産経新聞も「家は雨漏りがするほどだった」などと、これまた「貧しさ」を強調した記事を載せていました。

 昔から、マスコミが政治家の事を論じる時、「井戸塀政治家」なるものが理想であるかのような事を書きます。これは、、政治資金を捻出するために、あらゆる物を売り払って、井戸と塀しか残らいほど貧しくなった事を意味する言葉です。
 確かに、政治活動で多額の収益を挙げて「○○御殿」などと呼ばれる家を建てるより、こちらのほうが好感は持たれるでしょう。しかし、本来、「収支」というもの自体は政治家としての評価の対象にはならないはずです。たとえば、「井戸塀政治家」でも、その家まで売った金を使って、侵略戦争を推進して多くの人を殺せば、政治家としての業績はマイナスにしかなりません。ところが、多くの報道では、「お金がなかった」という所で評価が終了してしまいます。
 今回逮捕された議員は、特にその主張の右翼性が際立っていました。それに対し、日頃からこの議員と似通った主張をしている産経新聞と、「つくる会」の構成員の主張をほぼ丸ごと載せた事がある東京新聞が、あたかもこの議員が「清貧」であるとも取れる記事を載せたわけです。何か意図する所でもあるのでは、と思えてきてしまいます。
 少なくとも政治家においては「貧」と「清」には何ら関連性がないと考えたほうがいい、と今回の報道を見て、改めて思いを強くしました。

 なお、これは本筋から外れますが、逮捕された容疑者について、プラスの評価も含めたさまざまな立場からの声を掲載した、という点においては、上記の報道は評価に値すると思います。願わくば、このような報道手法を、このような政治業者だけではなく、刑事事件で逮捕・起訴された一般人(特に無罪を主張している人)にも適用してほしいものです。