イラクにもたらされた「自由」と「民主」

2003年イラク戦争・その2

 ブッシュ大統領の「戦争をしたい」という意思の下に始められた「イラク戦争」は多くのイラクの市民を惨殺して終了した。生き残った人々も、ある人は愛する子供を、またある人は腕や足を、別の人は視力を永遠に失った。また、これからも爆発せずに地雷と化したクラスター爆弾によって、多くの人々(主に子供)が死んでいくだろう。これらの多くの死者・負傷者を出してまでもたらされた「結果」は一体どのようなものだったのだろうか。
 アメリカが宣伝し、日本のマスコミも報道するところによると、イラクに「自由」と「民主」がもたらされたらしい。確かに独裁政治を行い、少数民族や反対派を抑圧し、隣国の侵略も行ったフセイン政権は崩壊した。
 それでは、フセイン前大統領がいなくなったイラク国民は「自由」になったのだろうか。また、「民主」というのだから、イラクは国民に政治を動かす権利のある国になったのだろうか。

 そのような状態はどこにも存在しない。アメリカの今後のイラク支配の構想は明白に伝わってこない。ただ、仮にイラク人を首班とする新政権ができるとしても、その政府がイラクの国民による選挙で選ばれる事はないだろう。アメリカの意を汲んだ人々が政権につき、アメリカの意思を最優先した政治が行われるだろう。
 一方、「自由」に関してはより露骨だ。アメリカの占領に対し、反対デモが各地で発生してるが、それに対し、米軍は銃弾で対応している。武装蜂起ではなく、デモ行進に対して武力で応じ、参加者を殺害しているわけだ。つまりイラク国民には「アメリカの占領に反対する自由」は存在しないわけである。
 イラクで「自由」を奪われているのは国民だけではない。バクダット侵攻の際には、アメリカに対して批判的な報道をしているメディアが滞在しているホテルを攻撃し、多数の死者を出した。このような状況で「報道の自由が守られている」とは言えないだろう。
 このように、イラク国民にとっては「自由」も「民主」も存在しないのが、フセイン政権崩壊後のイラクの現状である。ではいったいアメリカは誰に「自由」と「民主」をもたらしたのだろうか。

 今回のアメリカの「勝利」により、アメリカの石油産業をはじめ、イラクに利権がある企業は、これまでと違ってかなり自由に経済活動を行う事ができるだろう。また、今後はアメリカの政治を動かす支配者層である富裕な白人が、占領軍によって定められた政権を通してアメリカと同様にイラクの政治を動かす事ができる。彼ら一部のアメリカ国民がイラクの「主」となるわけだ。
 つまりこれからのイラクは、アメリカにとって「自由」で「民主」な国になるわけである。それを実現させるためにどれだけの人が命を失ったかと考えると、非常にやりきれないものがある。


ブログ「これでいいのか?」