愛国心について−2.「愛国心」と「公徳心」

2003/12/16

 前項で、戦前の「愛国心」が現代社会において通じるものではない、という事について述べてみた。では、現在、教育に「愛国心」を導入しつつある勢力は、そのあたりを認識しているのだろうか。そしてどんな理由をもとに「愛国心」教育の導入を進めているのだろうか。
 文部科学省のサイトで、「愛国心」で検索をかけたら、一番上に2002年に行われた中央教育審議会の第15回基本問題部会(懇談会)の議事録がでてきた。この会は教育基本法の「改正」などを目的としており、会長の鳥居氏は、日本がベトナムやインドネシアを侵略したのはアメリカが石油の輸入を止めたためで仕方ない事だった。と主張している人だ。つまり、「日本の国益のためなら、侵略され殺されたベトナム人やインドネシア人の命や暮らしが失われた事は仕方がない事」という考え方の持ち主である。
 とはいえ、さすがに文部科学省の審議会の議事録にそのような思想を直接反映させられなかったようだ。そこに書かれている「愛国心」は、前頁で筆者が書いたのと同じように、「戦前の愛国心とは違うもの」という事が主張されている。ただ、具体的に戦前の「愛国心」がもたらした弊害については、「戦争に導いたもの」くらいの「反省」しかない。後はすべて「戦前の負の印象をもたれる『偏狭的な愛国心』とは違う事だという事をいかに広めるべきか」という論議に終始している。
 この論議を読んでいて不思議な事では、彼らの広めたい「愛国心」が具体的にはどういうものなのかが伝わってこない、という事だ。抽象的には「世界の中での愛国心」などと表現して、とにかく「一国だけを考える、自民族だけを考える愛国心はだめなのだ。愛国心ではあるけれども、世界人類の中の愛国心」である、という事を主張している。しかし、何度この議事録を読んでも、では一体具体的に何を教えたいのか、という事および、「なぜ今更『愛国心』を教えなければならないのか」という事がわからない。

 どうもその建前としては、「戦後の行き過ぎた『人権』教育の弊害で、利己主義の人が増えた。だからこそ戦前のような愛国心を教育することにより、『公』に奉仕する心を養う」みたいな考えがあるようだ。「荒れる学校」や「少年犯罪」への対策という事なのだろう。
 確かに、日常生活していると、路上へのポイ捨てだの禁煙区間での喫煙など、「公徳心」が低いのは事実だろう。ただし、戦時中の日本人だって、他国の他人の家に入り込んで、略奪・強姦・放火などをしていたわけである。「戦後教育で公徳心が」などとは言い切れない。
 だいたい、そのような「公徳心」を向上させたいのなら、普通に「公徳心」を教えればいいのである。その際、「日本人だから」とか「日本だから」というのは何ら関係ない。そこに「愛国心」などが入り込む必要などない。
 だいたい、「公徳心」の低下を「人権」と結びつける事に妥当性はあるのだろうか。確かに戦前の「不敬罪」の時代に比べれば、確かに国民の権利は向上した。とはいえ、そこまで我々一般国民は「権利」を主張できているとは思えない。
 特に、バブル崩壊後はその傾向は顕著である。たとえば、日本国憲法によると、国民には「健康で文化的な最低限度の生活をする権利」があり、「勤労の権利を有し、義務を負う」となっている。しかし、実際には高校・大学を卒業した人の半分が就職できず、不安定な雇用形態での就労を余儀なくされている。さらに、「リストラ」などといって、失職して、住む家もなくなった人も少なくない。
 その一方で、「人減らし」の影響で、会社に残れた人には賃金も上がらずに長時間労働が強いられ、心身を病む人も少なくない。経団連のトップが経営している世界的企業が、「サービス残業」で問題になるほどだ。そう考えると、本当に一般の国民は使いすぎを批判されるほど「権利」を行使できているのだろうか。
 このように考えていくと、「権利が向上して、公徳心が下がった」という論法は成り立たない事がわかる。ましてや、それを是正するために「愛国心」を教育する、などというのは、見当外れとしかいいようがない。

 つまり、「権利が向上して公徳心が下がった。だから公徳心向上のために愛国心教育」というのは建前でしかない。ただ、この論法自体には彼らの本音も含まれている。
 先述したように、基本的人権が軽視される傾向は進行している。とはいえ、今の政治を行う側にとっては権利意識などなければないほどやりやすい。年金の給付額がいくら下がろうとも、「国家財政が大変だから仕方ない」とその低年金に耐える人のほうが、「これはこれまでの年金の運営体制に問題のせいだ。そしてそれを容認していたのは自民党政治だ」と主張する人より政府にとっては都合がいい。
 財界にとっても同様だ。サービス残業を強いても「会社あっての自分だから、日本経済を支えるわが社のために、朝6時に来て深夜に帰る」という人のほうが、「サービス残業は労働基準法違反だから、未払い分を払え」と主張する人よりも有益な人間になる。
 このような権利を抑制するためには確かに「愛国心教育」は有益だろう。「新しい愛国心教育」は具体的には語られてはいない。しかし、結局のところ、「国家あっての国民」というのが基本理念になるのは間違いなさそうだ。この事は、「公徳心」の建前から解る。少なくとも「国威の掲揚や、国際経済の競争に勝つ事より、一人一人が幸せな生活を送るほうが国全体としては幸せだ」などという「愛国心」を教育するものではないだろう。

 結局「新しい愛国心教育」が目指すものも、一部の見た目は違えど、「国家に忠実な国民(臣民?)を作る」という戦前と同じ目的だ。そのような教育によって戦前と同じ社会が来れば、日本に住むほとんどの人は当時と同じ目にあう可能性は高いだろう。


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