4.不良債権

2002/11/24

戻る次へ
 日本経済が落ち込んでかなりの時間が経つ。2年前、1990年代を「失われた10年」と表現されたが、現在はそれがそのまま「失われた12年」になっている。そのような長期低迷の日本経済再生するには「不良債権の最終処理が必要」と首相や経済財政政策・金融担当大臣は主張している。そのためには公的資金の投入や大手銀行の一時的な国有化もやむなしらしい。
 そのように、新聞・雑誌には毎号のように「不良債権の処理」という言葉が掲載される。しかし、「不良債権を処理」するのはいいが、なぜ不良債権を処理すると日本経済が蘇るのか、また一体どうやって不良債権を処理できるのか、さらにそこまで日本経済を圧迫している不良債権とは一体なぜ生じたのかなどは今ひとつ見えてこない。そこで根本にたちかえって「不良債権」とは何かを考えてみる。
 「債権」というのは単純に言えば「貸した金を返してもらう権利」である。それが「不良」なのだから、返してもらえないわけだ。ではなぜ返してもらえないかというと、その多くは貸した側の失敗である。たとえば土地とビルを担保に10億円を貸したところ、バブル崩壊による地価下落で担保の価値が1億円になってしまった。こうなると、貸出先が返済不能になり担保を処分しても9億円の損になる。これの積み重ねが何十兆円という「不良債権」の多くを占めている。
 このような事になってしまった原因は銀行などが地価を見誤り、土地の担保を過大評価したまま金を貸し続けた事が直接的な原因だ。しかし同時にそのような土地バブルを発生させた自民党政府の責任も同様に重大である。
 その不良債権を「公的資金=税金」を使って処理すべきだというのが政府の主張である。我々の消費の5%にかけられる消費税だの、所得の3%にかけられる所得税だのが、銀行や政府の誤りの穴埋めのために使われるというだけでも不快な話だ。しかしながら、さらに驚くべきことに、当時の銀行の経営者や政治の責任者が処罰されたり、それ相応の財産を不良債権処理のために供出する、というわけではない。むしろここ何年かの間、法人税や所得税の累進の「見直し」などによって、彼らは本来払うべき税金の額すら減らしているのだ。
 その一方で「痛み」を受けるのは普通に働いている銀行員や普通に営業している中小企業の人間だったりする。「不良債権の公的資金=税金による処理」の交換条件として銀行には「経営体質の改善」の名の下でリストラを強制される。対象となるのは一般社員である。「公的資金=税金投入の見返りとして、当時の経営者が路頭に迷った」などという話は聞いたことがない。
 リストラされたり減員の結果として過剰な労働を強いられる銀行員も大変だが、それより大変なのは運転資金を借りて経営している中小企業や自営業者だ。
 最初に書いたような「10億円の担保が1億円の価値しかなくなってしまった」というような「不良債権」はバブルの再来でもない限り、回収するのは不可能だ。しかし一方で「回収可能な不良債権」というのも存在する。たとえば不況のせいで毎月10万円の赤字を出している自営業があるとする。このまま儲けがなければ、銀行などがその業者に貸した金も「不良債権」になる。土地バブルの残骸などの「不良債権」とは規模も桁も全然違うが、言葉の上では「不良債権」だ。それのような「不良債権」の発生を抑制するために行われるのが「貸し渋り」、さらにそのような不良債権を「処理」するのが「貸し剥がし」である。
 もちろん、不良債権の原因は銀行の一般社員の人数が過剰だったからでも中小企業や自営業のが儲からなかったためでもない。だいたい、中小企業や自営業が儲からないのは不況と「規制緩和」などの政策のせいだ。にもかかわらず不良債権問題の根源は温存して弱者を苦しめる「不良債権処理」を行うわけである。まあ、根源の一つである自民党が政権を取っている以上、根源に踏み込むことはありえないのだが。

 ここまで、「不良債権の処理」の手段に対する問題点を述べた。では手段さえ正しく行えばいいのだろうか。「リストラ」「貸し渋り」「貸し剥がし」などを行わなければ、大銀行を一時的に国有化してでも公的資金=税金を注入して不良債権を「直接処理」することによって日本経済は再生するのだろうか。
 経済産業省の子供向け不良債権説明ページによると、「公的資金=税金投入により不良債権処理を行えば、それによって『貸し渋り』も『リストラ』もなくなる」みたいな事が書いてある。しかしこの論法は二つの意味で「子供だまし」である。
 まず、「不良債権」は増え続けている、という現実に触れていないことである。実際、過去に公的資金=税金が投入された1998年からの「不良債権」の推移を見ても明らかだ。巨額の公的資金=税金を投入しても、結局問題の解決にならなかった。強いて変わった事を挙げれば、それまで「貸し渋り」しかなかったのが新たに「貸し剥がし」という言葉が生まれたくらいだろう。
 もう一つは、不良債権を処理すれば、銀行を初めとする金融機関が「貸し渋り」「貸し剥がし」などをやめて中小企業や自営業に融資を再開したり、リストラをやめたりするという保証がとこにもない、という事だ。
 一例を挙げれば消費者金融への融資の問題がある。直接中小企業や自営業者に金を貸し、その結果として上から「不良債権だから回収しろ」とつつかれて回収に苦労するよりも、消費者金融や商工ローンに融資して、その利益の一部を利息として回収してほうが手間も少ないし確実だ。その結果金融業者は成長し、その陰で債務者が困っているわけだが、そんなことは銀行の儲けとは関係のない話だ。このような「効率的経営」を修得した銀行が、「公的資金による不良債権処理」が行われたからとして、昔の形に戻して、低利で中小企業や自営業に、審査や回収の手間をかけて融資を再開するとは考えにくい。
 このように考えていくと、結局のところ、大量の公的資金=税金を投入して不良債権を直接処理したところで、それがどれだけ経済に影響をおよぼすかは疑問である。
 ではなぜあんなに「一時的に国有化してでも公的資金注入して不良債権処理」にこだわるのだろうか。だいたい、国有の金融機関である郵便貯金や簡易保険を民営化しようとしながら、一方で銀行を国有化するなど矛盾もはなはだしい。
 それを整合させるのは「アメリカの要求」である。企業の国際的に勢力を拡大させる手っ取り早い方法は、進出先の国にある企業を買収することである。したがって、アメリカの金融資本も日本の銀行を買収・吸収したいわけだ。しかしながら、現状だと巨大な不良債権があるので、買収できない。そこでネックとなる不良債権を公的資金=税金で「処理」すれば、きれいな状態で日本の銀行を買うことができる。具体的には新生銀行がそのような手法で設立されている。
 そこに目的があると考えれば、小泉・竹中両氏が「とにかく不良債権の最終処理だ」といい続ける事も理解できる。別に「不良債権の最終処理」で日本の経済が回復しなくても、彼らが責任を取って路頭に迷うことなどありえない。ならば、直接圧力をかけてくるアメリカの言うとおりにするのが彼らにとっては最善なのである。別にリストラや倒産で自殺者がでようと、彼らとは別世界の話なのである。

 このように、これまでの「不良債権処理の実績」から見ても、現在の「不良債権最終処理」を主張する勢力を見ても、「不良債権の最終処理が経済回復に結びつく」という根拠はどこにもない事をおわかりいただけるかと思う。結局、このように経済政策・経営の大きな誤りがあっても、よほどの事でもない限り責任を負わなくてもいい、という政治・経済体制が維持される間は、日本経済の先行きは明るくならないのではないだろうか。
戻る次へ


ブログ「これでいいのか?」