5.痛みを伴なう改革

2004/07/26

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 2001年、「マスコミによる盛上げのおかげで、国民的注目を集めた自民党総裁選」の結果、史上まれに見る高支持率の小泉首相が誕生した。首相就任後も、マスコミはみなこの首相を盛りたてるために全力をつくし、その結果、「国鉄が民営化されて線路がなくなりましたか?」などという、事実認識ゼロの「絶叫」すら、「野党を論破する名答弁」みたいな感じで放映された。
 その中で、もてはやされた言葉の一つに「痛みを伴なう改革」という言葉があった。この言葉は、あたかも「これから小泉内閣の行う経済政策により、一時的に国民は『痛み』をこうむるが、それに一定期間耐えれば、経済は好転して生活もよくなる」という意味であるかのごとく報じられた。
 そして、3年たった現在、確かに日本の一部は「景気回復」をしたようだ。過去最高の高収益を出した企業も少なからず存在する。ただ、その「景気回復」を満喫しているのは儲けている一部の企業のさらに一部の経営層や幹部社員くらいしかいないのではないだろうか。
 「雇用が増えた」と自慢している閣僚もいるらしいが、別に生活が安定した人が増えたわけではない。正社員をリストラして、代わりにいつでも増減できる派遣社員やアルバイトを増やしただけである。残された正社員一人あたりの労働時間は増え、深夜0時頃にコンビニに行けば、勤め帰りの男女が弁当を持って並ぶ姿を普通に見るほどだ。その一方、川縁や駅などで暮らす人の姿も、相変わらず減っていない。商店街の「シャッター通り」も相変わらずだし、経済を理由とした自殺者も相変わらず増えている。

 このように、文字通り「痛みを伴なう改革」の「痛み」は具体化している。しかも、この「痛み」は、一部での「景気回復」が成し遂げられたといって、消えるわけではない。現在自民党政府や財界が打ち立てている政策を見ればわかるように、今後もリストラは続く上に、賃金は上がらず、年金は減り、消費税も上げようとしている。普通に暮らしている人にとっては、「痛み」は止まるところを知らない。つまり、「痛みを伴なう改革」というのは、「一時的には痛みを伴なうが、痛みが引けばその反動で一般市民も恩恵にあずかれる」というものではないのだ。「改革」の成果を得て収益を得る層がさらなる成果を得る一方、「痛み」を味わう層の痛みはきつくなり続ける。それが「痛みをともなう改革」の本質なのだろう。

 確かに、20世紀後半の日本は、「大企業の収益向上=国の経済成長=一般市民の生活向上」という形で経済成長を続けてきた。したがって、我々もつい「企業の業績に関する指標が上がれば、自分たちの生活もよくなる」と思ってしまいがちだ。
 しかし、大企業やその集合体とも言える財界・およびその利益を代表する自民党政府にとっては、そのような考え方につきあってあげる必要は全くもってない。過去の例を見ても、「イギリスの少年炭鉱労働者」や「女工哀史」などのように、労働者を過酷に働かせる事によって、企業が高収益を挙げて「経済成長」した例はいくらでもある。したがって、現代でも、一般市民を切り捨てたほうが効率的に利益を挙げられ、組合の弱体化によって抵抗もないだろう、と結論づければ、そのような経営を実施するだろう。実際、高収益を挙げているトヨタは、社員の給料をほとんど上げていない。
 今年に入って、年金問題などの「失策」が表面化し、小泉内閣の支持率はやっと下がった。しかし、支持率が下がろうと参院の議席数が減ろうと、「痛みを伴なう改革」路線に変更はない。自民党の代わりに議席を伸ばした民主党も、「改革路線は支持」と言っている。
 この3年間、「日本の将来のためには、国民も痛みを味わわなくてはならない」と言い続けたのは、政界・財界・マスコミなど、実際に自分達が「痛み」を受けない人たちだった。これらの主張を聞いていると、「国の将来のためなら仕方ない」と思ってしまいがちだ。しかし、この場合の「日本の将来」とは、「痛み」を与える層だけが安泰でありつづけるための「将来」でしかない。それを「痛み」を受ける人々が、「彼らの将来のために自分たちは『痛み』を味わい続けねばならない」と甘受する筋合いはどこにもないのではなかろうか。

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