一票の価値

 二十歳になった年に選挙がありました。
 そこで、同い年の友人に投票の話題をふりました。すると、間髪入れずに「選挙なんか行かない。だって自分の一票で当落が決まる事などないから」と言われました。
 25年以上たった今も、あの言葉は鮮明に覚えています。
 当時の衆院選は中選挙区制でした。それでも、TVの選挙報道を見ると、いつも何千・何万票の差がついて当落が決まっていました。今と同じで、開票が始まる前に「当確」が表示されることも多々ありました。
 そのような印象が強いので、その友人と同様に、「自分の一票が当落を決めることなどはない」とは思っていました。
 しかしながら、仮に意味がないとしても、自分の参政権を放棄するのは間違っていると思い、投票には欠かさず行っていました。

 しかし、ある時期から、この「自分の一票で当落が決まることがない」というのが誤りであることを知りました。
 確かに、国政選挙では、一票差で決まるということは聞いたことがありません。
 しかしながら、地方議員を決める選挙では、その「一票で決まる」というような事はいくらでもあった、という事を知ったのです。
 たとえば、2週間前に行われた熊本市議選では、二人の候補者の得票数が全く同じになり、公選法の定めにしたがい、抽選で当落が決まった、という事がありました。
 自分が応援している日本共産党の議員でも、そのような例はいくらでもあります。
 たとえば、明日行われる地方選挙で品川区議を目指している安藤たい作さんは、前回、12票差で落選しました。
 同じく、現職の中央区議で再選を目指している、加藤ひろしさんは、2票差でかろうじて当選しています。

 日本の首都で、さらにその中心に位置する品川区や中央区ですらそのようなギリギリの票数で当落が決まります。
 その数票差で決まるのは、その候補者個人の身分だけではありません。議会というのは、議席数の多寡により、議員団の持つ権利が変わってきます。その数票差のおかげで、議案提出権を得ることができたり、その逆になったりする事があるのです。その結果、地方自治体で行われる政策が大きく変わる事も十分にありえます。
 にも関わらず、マスコミがこの「数票差の激戦」を大きく取り上げることはありません。選挙に「ドラマ」を求めるテレビですら、このよう「当落劇」を扱いません。
 一方で、大差での当選ばかりが報じられます。さらに、「誰に投票しても同じだ」「選挙なんかで政治は変わらない」などという「有権者の声」を流して、暗に棄権を促します。
 前回の記事でも書きましたが、投票率が下がれば下がるほど有難いのは、自民党や公明党などの宗教団体や経済団体などの集票システムを持つ与党です。
 そのため、与党と繋がりの深いマスコミも、有権者の投票意欲をそぐ報道はいくらでもしますが、逆に「たったの一票が選挙結果を左右した」などという事を大きく報じることがありません。
 そのようなマスコミ報道の「効果」が、選挙権を得る前から自分の一票に価値はないと思わされていた自分の大学時代の友人のような人を、たくさん生み出しているのでは、と思っています。

 これは何千・何万票差で決まる選挙にも言えることです。
 たとえば、10万人の選挙区に二人出馬して、当選した候補が4万2千票で、次点の候補者が2万8千票だったとします。
 一見、圧倒的大差に見えます。しかし、仮に棄権した4万人のうち半分でも次点の人に投じれば、結果は逆転するのです。
 現在、日本の選挙の投票率は半分を切っています。それだけ「無力感」を刷り込まれているわけです。しかしながら、マスコミが煽るほど、一人ひとりの有権者は無力ではないのです。
 実際、投票率が高かった二十世紀半ばには、その投票によって、さまざまな革新的な事を実現した自治体が少なからず存在します。

 今の世の中が暮らしにくくなっている、というのは多くの人の共通認識でしょう。マスコミの世論調査ですら「景気がよくなっていると感じない」という回答が八割を占めます。
 また、具体的なデータを見ても、実質賃金も年金も下がり続け、一方で物価や社会保障の負担は上がり続けています。
 このままいけば、より一層、普通に暮らす人たちは、生活が苦しくなるでしょう。その流れを変える最大の「武器」は一人ひとりの一票です。
 明日、地元で選挙がある方々は、ぜひともその一票を使って、世の中を動かす一歩を築いていただきたいと思っています。