保護されない「容疑者」と、保護される「殺人者」

 社会的に話題になった事件の容疑者が逮捕されると、マスコミは大騒ぎします。
 まだ「逮捕された容疑者」でしかないわけで、起訴されないかもしれませんし、起訴されても無罪になる可能性があるわけです。
 にも関わらず、マスコミは、その「容疑者」について、本名・顔写真をはじめ、様々な情報を、警察が発表した「彼(彼女)が犯人だという理由」をくっつけて世間に流します。
 マスコミが報じた事は事実である、と思っている人は、それを読めば間違いなく、その「容疑者」が真犯人であると思い込んでしまうでしょう。

 もちろん、それらの人が無実である事が判明しても、マスコミは何ら反省をしません。
 仮に「容疑者」が高級官僚など、一定以上の権力を持っている人だったら「お詫び」だの「検証記事」だのを載せる事はあります。
 しかしながら、冤罪の被害者が何ら力のない一般人だったら、そのような事は一切しません。「警察が誤認逮捕した」など、自分達の犯人視報道には頬かむりをした記事を載せるのが関の山です。
 ひどい時は、無罪が完全に確定したにも関わらず、「被害者の遺族」の「彼が犯人だと思っている」という談話を載せたことすらありました。
 別に、その遺族の方が事件を目撃していたわけではありません。他の人々同様、警察に「あいつが犯人だ」と吹きこまれていただけの話です。
 にも関わらず、そのような「声」を使って、無罪の人を犯罪者扱いした自分達の記事の悪質さをごまかそうとする事すらあるのです。

 ところが、その一方で、ある種の「犯罪者」に関しては、マスコミは非常に寛大です。
 それは、従業員にパワハラを繰り返し、自殺に追い込む、という「人殺し」をした会社の責任者です。
 先述したように、一般人だと「容疑者として逮捕」されただけで、あらゆる個人情報を晒されてしまいます。
 ところが、彼らの場合、「人殺し」について、裁判所から賠償命令の判決が出ても、責任者の名前が報道される事はありません。ひどいときには、社名すら書かれない事すらあります。
 一応、この「人殺しの責任者」に対して、取材はされるようです。しかしながら、彼らは判で押したように「判決文を読んでいないからコメントできない」としかいいません。
 そして、新聞記者は「子どもの使い」よろしく、それをそのまま「記事」にします。そして、この件が報道される事は二度とありません。
 警察が「容疑者の新事実」を発表すれば、逮捕から何ヶ月経っても、それをデカデカと報道する「一般人の犯罪報道」とは偉い違いです。

 だいたい、「判決文を読んでいないから」と言われたら、「何月何日までに読みますか? その翌日に取材に伺いますので」と言って、コメントを取るのがプロとして最低限の仕事なのではないしょうか。
 判決が出ているのだから、こちらから判決文のコピーを持って行って読ませる事だってできるはずです。
 学校で事件が起きた時などは、質問を拒否する子どもからも、強引にコメントを取りに行くほど「取材熱心」なわけです。
 に関わらず、「従業員を自殺に追い込む」という社会的重要度が極めて高い事件に対しては、その一万分の一ほどにも、「取材意欲」がないのです。
 一昨年あたりから、「ブラック企業」が大いに批判されるようになりました。しかしながら、「社会の木鐸」を自称する商業マスコミは、その「ブラック企業」に対し、ここまで低姿勢で対応しているわけです。

 多くの労働者にとって他人事でない、「職場のパワハラにより過労自殺に追い込んだ社長の言動」と、「犯人と確定したわけでない容疑者の言動」では、どちらを詳しく報道すべきかなど、言うまでもないでしょう。
 にも関わらず、商業マスコミは正反対の比重で「報道」しているのです。
 彼らは、あたかも、一般市民の味方であるような立ち位置で記事を書きます。しかしながら、この現状を見れば、それはあくまでも「ポーズ」でしかなく、実際に彼らが立っている位置は「経営者にこき使われる社員」ではなく、「社員をこき使って殺す経営者」の側」である事がよく解ります。