小泉首相の「理解」力

 小泉首相は、就任してから毎年必ず靖国神社に参拝しています。そのたびに、内外問わず厳しい批判が起きます。その参拝が政教分離に反する事争った裁判では、高裁で違憲とする判決も出ました。かつての被侵略国でも、反発が相次ぎ、中国や韓国をはじめ、外交でも重大な問題となっています。その深刻さは、かつては関心を持たなかった、小泉首相の「宗主」であるアメリカまでが問題視するほどになっています。
 それほどの問題になっているにも関わらず、靖国参拝批判に対する小泉首相の発言は判で押したように同じで、「自分は平和を願って参拝している。批判する人は理解できない」というものです。批判する相手が日本の一市民だろうと、外国首脳だろうと変わりはありません。
 今更言うまでもない事ですが、靖国神社は「平和を祈るための神社」などではありません。天皇制政府のために戦って死んだ兵士・戦争遂行者などを「神」として祭る事により、「お国のために戦死するのは名誉な事だ」という事を、これから戦地に送られる人に教え込むための存在です。現代でも、神社の公式サイトを見ても分かるように、そこに流れている思想は「日本政府が行った戦争は基本的に正しい。そしてその戦争のために死ぬ事は崇高な事だ」というものです。

 つまり、靖国神社には世間一般でいうところの「平和」とは対極的な思想が流れています。したがって、その神社に「平和のため」といいながら参拝しつづける小泉首相にとっての「平和」という概念も、世間一般での「平和」と考えざるをえません。
 なにしろ、自分が送り込んだ自衛隊員が、米軍の兵站活動をを通じてイラク人の虐殺に協力している真っ最中に「不戦を誓う」などと発言するほどです。おそらくは、彼にとって、「平和」というのは、アメリカの軍事戦略がうまくいっている状況を言うのでしょう。戦火が交えられているとか、そこで人が死んでいる、などという事は関係ないのです。
 もしかしたら、「1945年に日本は平和になった」という歴史的事実についても、「日本人が戦争で死ぬ事がなくなったから平和になった」ではなく、「アメリカが完全勝利を達成したから平和になった」と認識しているのかもしれません。
 とにかく、「平和」の概念が違うわけです。したがって、「戦争によって一般市民が不当に死なないのが平和」と考えている人々が、首相の戦争奨励神社への参拝を批判して裁判を起こす事について、「理解」などできないのも仕方がないのでしょう。

 なお、辞書で「理解」を引くと、主な意味は二つかかれています。1 物事の道理や筋道が正しくわかること。意味・内容をのみこむこと。「―が早い」 2 他人の気持ちや立場を察すること。「彼の苦境を―する」です。
 小泉首相の「理解」に関する発言を聞くとき、なんとなく「1」の意味で解釈してしまいがちです。しかし、この件から考えても、「2」の意味で使っていると考えるべきなのでしょう。実際、この靖国問題に限らず、他人の気持ちや立場を察しない事は少なくありません。それにしても、経済的・政治的にも重要な関係がある近隣各国の首脳に対してすら、気持ちや立場を察する事ができない、というのは本当に困った事です。
 実際に会う機会のある彼らの事すら理解できないわけです。ましてや、構造改革によって痛みを受けている多くの日本国民の事を理解する事など、絶対と言っていいほど不可能でしょう。