原爆を正当化する人々にとっての「平和」

 経団連会長が主催した学生向けの企画に、シーファー駐日米大使が招かれて、「平和や正義など人類普遍の価値を求めて活躍してほしい」と言ったそうです。
 そして、その直後に原爆投下に対する質問を受け、「戦争被害者を最少限に抑えるためだった」と回答したとの事です。(参照サイト
 つまり、この駐日米大使にとっての「平和や正義」というのは、広島や長崎で何十万人の人を虐殺し、その上、その場で生き残った人も放射能で苦しめる事が「平和や正義などの人類普遍の価値」のようです。
 「原爆を投下しなければより多くの人が死んでいた」という論法自体、理解しがたいものがあります。少なくとも、ドイツもイタリアも、原爆を落とさずに戦争は終わっています。
 ただ、このような発言は別に珍しいことではありません。「原爆を落とした側」にとっては、毎度の事です。そして、彼らは今でも「平和のため」などと言いながら、残虐兵器を作り、実際に使用して多くの人を殺したり傷つけたりしています。

 こうやって考えてみると、彼らが用いている「平和」と、1945年8月6日に広島にいた人にとっての「平和」は、全く違う概念だという事が分かってきます。
 では、彼らにとっての「平和」とはいったいどのようなものなのでしょうか。
 少なくとも、「人の命が守られる」だの「安心して暮らせる」などという事は彼らにとっての「平和」ではありません。何十万もの人が死のうと苦しみ続けようと「最小限」でしかないわけです。
 その一方で、彼らは「平和のため」などと称して、今でも軍事活動を行なっています。それによって、軍需産業をはじめ、さまざまな所から彼らは利益を得るわけです。
 そうやって考えていくと、彼らにとっての「平和」とは、「軍事力を活用して利益を得ること。そのために人が何十万人死のうと関係ない」という状態を定義する言葉である事が分かります。それならば、「平和(中略)を求めて活動して欲しい」と言った直後に原爆投下を正当化する大使の発言も、現在アメリカ軍が行なっている「平和のため」と称して行なわれている残虐行為についても整合性は取れるわけです。
 駐日米大使および彼の所属している政府は、このように「平和」の定義をしているわけです。さらに言えば、その国の軍事戦略を最優先する自民党政府、さらにはその政府を支える一方で、このような企画を主催する財界にとっての「平和」も同様の定義でしょう。
 このような認識の違いがあるために、冒頭の企画での質疑応答のように、「平和」に関する論議はなかなか噛み合いません。その原因を理解するためにも、「人が死んだり傷ついたりしない」状態を「平和」と認識している人は、同じ「平和」という言葉を全く違う意味で使っている人が存在する、という事を強く認識する必要があると思っています。