「どう考えてもおかしい」週刊誌

 半月ほど前に、学校内で殺人事件が発生し、被疑者とされた少年が消息不明になり、指名手配されました(実際には事件直後に自殺)。これに対し、週刊新潮が、その少年の実名と顔写真を掲載しました。その理由は逃亡して指名手配されているのに、実名も顔写真も公開されていないことはどう考えてもおかしい。公表は犯人の自殺・再犯の抑止にもつながるとの談話を発表したそうです。
 この「逃亡して指名手配されているのに、名前・顔写真が載らないのはどう考えてもおかしい」というのはどういう論法なのでしょうか。私は週刊新潮をさほど読んでいるわけではないのですが、まさか毎週、「今週の指名手配犯」というコーナーがあって、全国各地の警察が指名手配した全ての容疑者の名前と顔写真を「自殺・再犯抑止のために」と言って掲載しているのでしょうか。
 それとも、まさかこの少年に限っては、極めて特殊な例で、実名と顔写真を掲載しないと自殺・再犯の可能性が極めて高まる、とでも言いたいのでしょうか。

 というわけで実名・顔写真を掲載した「論拠」はいずれも無意味なものでした。では一体、なぜ週刊新潮は少年の実名と顔写真を載せたのでしょうか。
 もちろん、それは単に「興味本位で事件を扱い、容疑者の少年を『さらし者』にすることで、部数を増やして収益を挙げるため」です。特にこの雑誌には、このような少年を「さらし者」にする事に喝采を挙げる層が読者の中にも少なからずいます。したがって、話題性の高い犯罪だと思えば、加害者だろうと被害者だろうとおかまいなく、実名・顔写真はもちろんのこと、プライバシーに関することまであることないこと暴き立てます。
 その象徴と言えるのが、1994年の「松本サリン事件」における、第一通報者であり、重大な被害を負った人を犯人扱いし、家系図まで掲載した事でしょう。結局、この人は犯人でもなんでもなかったわけです。仮に週刊新潮の報道が「犯人の自殺や再犯を防ぐため」だのといった「社会正義」を実現するためのものなら、それこそこの無実の人を犯人視し、家系図などを載せた行為についてはそれ相応の責任を取るべきです。しかし、この週刊誌は謝罪文すら載せず、それどころかかつて「さらし者」にした人の所で何食わぬ顔をして「取材」に行くほどのあつかましさを見せているのです。
 この事からも、このあたかも「社会正義」だの「被疑者の事を考えて」だのという建前の元に行われた今回のこの報道は、ただ単に「売らんがため」でしかない事がよくわかります。

 ところで、その論拠の一つである「再犯防止」ですが、かつて、こちらのライバル誌であり、読者層・記事内容とも良く似ている週刊文春がある少年犯罪の犯人を実名・顔写真入りで報道しました。そのうちの一人が数年後に成人してから再び犯罪の容疑で逮捕される、という事がありました。
 その報道に関して、当の週刊文春はかつての掲載を自画自賛していました。また、他のメディアもこれを口実に少年法批判をやっていました。しかし、少なくともこの件から導き出されるのは「未成年の犯罪被疑者の実名・顔写真を掲載したところで、再犯防止になるとは言えない」という事くらいです。しかしながら、なぜかこのような論理的関連性が何もないにも関わらず、あたかもかつての「実名・顔写真掲載」に意義があったかのように主張しているのですから、理解不能です。
 繰り返しになりますが、これらの週刊誌が犯罪被疑者の少年の実名・顔写真を掲載するのは、ただ単に自らの収益のためでしかありません。少々突っ込んで分析すれば、「少年法の反する記事を掲載する行為」と「それによって起こりうる不利益」と「その記事を掲載することによって見込まれる収益」を天秤にかけ、その結果が「儲かる」と判断したから載せただけの話です。
 にも関わらず、他社の取材に対し、薄っぺらな建前を述べるわけです。一方、それを受けた新聞もそれをそのまま載せるわけです。別にもう驚きもしませんが、このような「金のため」という本心をあたかも社会的使命であるかのように宣伝する情報産業のあつかましさには、呆れさせられます。