「成長か分配」か、という選択肢

 政権交代に伴なう政策転換に対し、財界やマスコミが「民主党がやろうとしている、『成長より分配』は誤りだ」と批判しています。実際に民主党政権が「成長より分配」という政策を実行するかは甚だ疑問ではあります。とはいえ、この「成長か分配か」という選択肢および、それに対して執拗に批判をする勢力およびその内容については、色々と興味深いところがあるので、考察してみます。
 財界やマスコミによる、「分配より成長」という主張の論点に、「分配しても効果がない」というものがあります。これは、低所得者の分配を増やしても、それは貯蓄に回る。したがって、経済効果はない、というものです。実際、昨年行われた定額給付金の多くは貯蓄に回ったそうです。したがって、現時点においては「分配したら貯蓄にまわる」という推定自体は正しいと思われます。

 しかしながら、分配が増えた分が貯蓄に回る理由は、別に所得の低い人が貯蓄マニアだからではありません。賃金が減り続ける上に、年金も当てにならないので、将来の事を考えて使えないだけの話です。
 つまり、昨年行ったような、一人1万2千円を一回だけ配布する、などという政策を行っても、それが消費に回らないのは当然の事です。つまり、長期に渡って収入が安定するようになれば、状況は変わってくるわけです。
 ところが、「成長論者」はそうは考えません。彼らは、「少々彼らにまわしても『経済効果』がないなら、回さなくても同じだ」と考えるわけです。つまり、所得の低い人々の生活など、どうなってもいいわけです。

 そのような事を主張する一方で、彼らは「経済成長すれば、その効果で皆が潤う」などと、自分たちの主張通りに進めばその後で自動的に分配も行われる、などと言います。
 現状で「分配」をしても効果がないと主張しているわけです。それが彼らの望む「成長」が行われた結果として、分配が行われる、などという事があるわけがありません。その時になれば、「いま分配しても貯蓄に回るだけだ。したがって、より一層企業を成長させるために分配は行わない」という政策が行われるのが自然な流れです。
 実際、リーマンショック前の「戦後最長の経済成長」が続いていた際、常に「もうしばらくすれば、この好景気が賃金上昇として生活に波及する」という記事を日経新聞などは書き続けました。そして、そのような事は最後まで実現しませんでした。
 つまり、「分配より成長」という経済政策の向かう先は、「多くの人の生活を低下させながら一部大企業の利益が向上し、それによって恩恵を受けるごく一部の人達だけがいい思いをする」という、現在の格差社会がさらに極端になった世の中でしかありません。

 「分配」を優先すれば、確かに経済成長の度合いを使われている指標が劇的に増大することは当分ないでしょう。なぜならば、その「成長」の分が、多くの人々の生活安定に回るからです。
 一方、「成長」を優先し続ければ、確かに経済指標は維持できるかもしれません。わかりやすい例として、企業がリストラを行えば経費が減ります。そのため仮に売上が落ちても利益は増え、それが企業の資産増に結びつくため、その企業は「成長」します。それにより、株価・配当・役員報酬などは上がります。
 ただし、このような「成長」を維持するには、リストラを行い続ける必要があります。つまり、それによって生活が苦しくなる人を増し続ける事によって「成長」が維持されるのです。
 そにで恩恵を受ける人たちは「分配より成長」を主張していればいいでしょう。逆に言えば、それによって損する多くの人々が、その主張につきあう必要など、どこにもないわけです。