「安全性が確保された」の意味

 電力会社・財界・政治業者たちが盛んに「原発の安全性」について宣伝しています。彼らによると、安全性は既に確保されており、それについては政府が責任を取れるそうです。
 同様に、商業マスコミも社説などで「原発の安全性を発信し、再稼動せよ」などと主張しています。
 しかし、現に福島では、いまだに原発事故が解決していません。それどころか、「いつまでにどうやって解決するか」すら明確になっていません。つまりは全くもって安全ではないのです。

 ではなぜ、政財界やマスコミは「安全」などと主張できるのでしょうか。実は私もしばらく不思議に思っていました。しかし最近になって、「安全」の概念が、彼らと我々では違うからだ、という事に気づきました。
 少なからぬ人が「福島が現在進行形で事故を起こしているから安全でない」と考えています。その理由は当然ながら、原発は未だに爆発の危険性を残したまま放射能を排出し続けているからです。
 なにしろ、それによって原発周囲は居住不能になり、福島では大量の放射線が降り注ぎ、多くの農産物や畜産物から放射性物質が検出されているのです。それにより、住民の健康・農家の生活に被害が出ています。

 ところが、住民が被っているそれらの事は、実は政財界やマスコミにとってはどうでもいい事なのです。原発周辺の人が住むところを失おうと、子供が将来癌になろうと、収入源を絶たれた農民が自殺しようと、それは地元住民などの安全が侵されているだけの話です。
 実際、東電の役員で住むところを失った人はいませんし、財界要人の子供に尿からセシウムが検出された例もありません。もちろん、自殺したマスコミ関係者もいません。
 そして、相変わらず彼らは立派な家に住み、安定した収入があります。話題の福島産牛肉などを食べる事もないでしょう。
 仮に今後、玄海や大飯の原発に何かあってもそれは変わりません。これまでも、万が一の事が発生しても、彼らの「安全」が担保されるような場所を選んで原発を作ってきたからです。したがって、彼らにとっては、3月11日以降も「原発は安全」なのです。

 このような事は他にもいくらでもあります。たとえば、何百万人もの人が兵隊に取られ、中国・ソ連や南方で戦死・餓死・凍死をしても、権力者たちのほとんどが生き残れば「あの戦争はかならずしも悪くはなかった」となります。
 また、労働者の収入が減り、雇用が不安定になっても、大企業の当期純利益が増えれば、「日本経済は回復している」となるわけです。
 同様に、「原発の安全性が確立された」と主張する勢力にとっての「安全」と、普通に暮らしている人の「安全」は全く違うものです。その大前提を認識せずに、彼らが流す「原発の安全性確立」などという言葉を信じるのは、大きな勘違いになる、という事に注意する必要があるでしょう。