妄想を前提とした労働法改悪論

 ダイヤモンド・オンラインというサイトに、会社側の労務専門の弁護士による労働者のニーズにもあわなくなった労働法なる文章が掲載されていました。
 話の概要をまとめると、「労働法は労働者を『弱者』として規定しているが、それは女工哀史時代の遺物で、現在はそのような事はない。だから労働法を変え、過剰な保護規定を減らすべきだ。それが労働者のためにもなる」となります。したがって、かつて財界が提言して大反発を受けた「ホワイトカラー・エグゼンプション」など肯定的に論じています。
 このような題名の文章を書く以上、まずは「労働者のニーズ」の現状を説明して、論を進めるというのが当然の事です。実際、この文章も、さわりにそれを書いています。ところがそれは、たとえば漫画家のアシスタントとして働く人のなかには、「憧れの先生のもとで働けるなら時給100円でもかまわない。ただ働きでもいいくらいだ」と考える人もいるでしょう。というものでした。
 冒頭に出てくるわけですから、本論の重要な前提になるはずです。しかしながら、よく読んでみると、最後に「考える人もいるでしょう」などと書いています。

 つまり、この「労務専門の弁護士」は漫画家のアシスタントに取材をして、そのような発言を引き出したわけではありません。「漫画好きな人にとっては趣味の一環だから、タダ働きもするだろう」という勝手な妄想を書いているだけなのです。
 もちろん現実は違います。実際には漫画やアニメなどの制作現場での低賃金が問題になり、争議になった事例などいくらでもあります。また、NHKでアニメ化された、漫画家を題材にした作品を見ても、アシスタントにとっての給料がそんなお気楽なものではない、という事くらいすぐ分かります。
 だいたい、それ以前の問題として、趣味で無償でもいいから働きたい、という人を元に雇用契約に関して語る、という事自体が、「労働」というものを論ずるのに適切ではありません。

 さらにこの「労務専門の弁護士」の妄想は続きます。今度は、特養老人ホームの慢性人手不足を理由に、こうして老人ホームの賃金はどんどん上がっていきます。などと書いています。
 これが事実かどうかなど、すぐに分かります。検索サイトに「特養老人ホーム」と打ち込めば、実在の施設の募集要項をいくらでも見ることができます。そこで提示されている給料は「どんどん上がっていきます」などと言うのは、どこの世界の話だ、と思えてくるようなものばかりです。
 つまり、この文章は、筆者の妄想によって作り上げた架空の労働者や労働条件を元に、「労働者は本人のニーズ以上に保護されすぎている」と主張しているわけです。

 まあ、会社側の労務を担当する弁護士の仕事には、「残業代未払いなどで裁判沙汰になった労働者の主張をいかに抑えつけるか」というのがあるわけです。
 その際に必要なのは、いかに労働者の実態を知る能力ではなく、会社側が勝手に決めつけている「労働者の身勝手」を主張する能力です。そんな事を繰り返しているうちに、妄想と現実の区別がつかなくなったのでしょう。
 もしかすると、この「労務専門の弁護士」にとって過労死は全て本人の体調管理ミスであり、過労自殺は全て勝手に自殺しただけ、そしてサービス残業は全て好きで会社にいたい従業員の自発的行為、という認識なのだろうか、とまで思えてきました。

 そのように架空の「事例」ばかり出てくる中で、唯一事実に即している事例がありました。それは、賃下げによって収入が減った労働者が、生活費を稼ぐために残業を希望する、という事です。
 つまり、それだけ賃下げがひどく、この論の主題である「労働者は弱者でない」が事実と異なる事証明する一例なわけです。ところが、この「労務専門の弁護士」にかかると、それは「労働基準法三十二条に定めた労働時間の制限がおかしい」という事になってしまうのです。
 ちなみに、この文章によると、その要求を飲んで、本来必要ない残業をさせている会社が存在するとのことです。もし事実だとしたら、労働者に残業代を払うがために、不要な生産物を作り、それに伴う経費をかけている、という事になります。
 ならば、賃上げし、残業しなくても同じ収入を得るようにすればいいだけの話です。その分、不良在庫も経費も削減できます。
 というわけで、数少ない、事実に基づいた事例も、進めていくうちに、とんでもない非現実的な話になってしまいました。

 というわけで、この文章は、労働の現実と乖離した「作り話」であるとしか言いようがありません。しかしながら、書いているのはプロの弁護士で、掲載されているのは有名な雑誌です。したがって、これを信じる人も少なからず存在するでしょう。
 そして、このような論法に基づく「厳しすぎる労働規制」は、日本産業における6重苦の一つだ」という論法が大手を振って通っているわけです。そのような考えを持つ勢力により、派遣法の改正が骨抜きにされたのは、記憶に新しいところです。
 今世紀に入ってから、労働者の賃金は減った上に、労働時間は増え、失業率は上がりました。そして、減った労働者の取り分は、そのまま一部大企業の収益になっています。
 その結果、かなりの労働者が疲弊し、それが消費にも影響しています。したがって、いくら大企業の利益や内部留保が増えても、国の経済は相変わらず「長引く不況」のままです。
 それをさらに悪化させるのを目的とした、このような言説が堂々と流され続けられているわけです。そのような事を行なっている勢力が目指している近未来の日本の事を思うと、背筋が寒くなりました。