「維新の広報紙」と化した新聞と、その「高邁な」社説

 朝日新聞が11月17日に、政党の責任―「熱狂の政治」はいらないと題する社説を発表していました。
 2005年の「郵政選挙」および、2009年の「政権交代選挙」などを
シンプルな争点を政党が掲げ、多くの有権者の熱い期待を集めた。だが、そんな「熱狂の政治」は、果たして人々の期待に応えることができただろうか。 答えが否であることは、1年限りの首相交代を5度も繰り返してきた現状が、何よりも雄弁に物語っている。
と批判しています。そしてその結果として、
景気の低迷に出口は見えない。産業の空洞化も進み、多くの若者が正社員になれない……。
などと、いかにも自分たちは、不景気に苦しむ一般庶民の味方であり、これまでの政治を糾弾する、という立ち位置で、政治家に「提言」をしています。

 それほどまでに批判している「熱狂の政治」ですが、それらの選挙中に朝日新聞はどのような報道をしていたのでしょうか。
 実際には、2005年にも2009年にも、「郵政民営化」だの「政権交代」だのよりずっと重要で、本来の争点となるべく問題は山ほどありました。
 それらを無視してひたすら「郵政」だの「政権交代」だのと叫び続け、あたかもそれだけが選挙の目的であるかのように宣伝し続けたのが、朝日新聞を含む商業マスコミです。
 それがいざこのような現状になると、他人ごとであるかのように「『熱狂の政治』が果たして人々の期待に応えることができただろうか」などと「批判」しているわけです。

 とはいえ、かつての「熱狂の政治」を持ち上げた事をこの新聞社が反省し、現在の紙面において、報道姿勢を改めたというのならまだ少しはこの社説に説得力もあるでしょう。
 しかしながら、そのような事は一切ありません。それどころか、これまで以上に「熱狂の政治」を煽っているのです。
 この社説が掲載された翌日の朝日新聞の一面トップは、「太陽の党」と「日本維新の会」の合併でした。
 さらに、二面・三面でも、一ページ分を使って、それに関する情報を大きく載せています。
 そして、社会面の一番目立つ所も、維新の会から立候補する議員の紹介でした。ご丁寧に、一人ひとり名前を書いています。
 また、筆者が見た千葉版のトップもやはり維新の会から出馬する候補者の紹介でした。これまた名前付きで宣伝していました。中には、これまでずっと「みんなの党」の看板で政治活動していながら、突如「維新」に鞍替えした人もいます。しかし、そのような無節操な行為に対する批判などはありませんでした。
 これではまるで、「維新の会」の広報紙です。
 そして、社説でも「太陽」と「維新」の合併を題材にしていました。そこでは一応、批判めいた事を書いています。しかし、この紙面構成で「批判」をしても何ら説得力はありません。「持ち上げてもいるが、批判もしているから公平な報道だ」というアリバイ作りとしか思えませんでした。

 つまり、「郵政」「政権交代」に続く「熱狂」の対象を「維新」「第三極」に設定し、広報紙さながらの紙面構成でその大宣伝をしているわけです。
これがまだ、「維新」およびそれらと連携する「第三極」に優れた政治の実績があった、というのなら分かります。しかし、そのような物は何もありません。あるのは負の実績ばかりです。
 にも関わらず、それすら無視して、「今回の選挙の主役」にしようと、懸命に「応援報道」をしています。
 これは、3年前・7年前同様、いやそれ以上に質の低い「熱狂の政治」を目指している以外の何物でもありません。
 ところが、そのような自社の現状には口を拭って、「かつての『熱狂の政治』が期待にこたえることができたのだろうか」などと白々しく「論評」しているわけです。

 この社説は、「熱狂の政治」を批判する事においては間違ってはいないと思います。
 しかしながら、その社説を発表した新聞社が、これまで自ら「熱狂の政治」を演出していたわけですです。そしてさらに、新たに、かつこれまで以上に質の低い「熱狂の政治」を生み出そうと煽っているわけです。
 何か、詐欺師の一味がその素性を隠して被害者に近づき「大変でしたね。では私が、詐欺にあわない方法を伝授しましょう」と言っているようなものだと思いました。

 この社説の最後の方には、政策はそっちのけ、風やブームを求めて右往左往する政治家がいかに多いことか。などと書かれています。
 確かにその通りだと思います。しかしながら、その「右往左往」の代表格である「維新」を広報紙であるかのように持ち上げている朝日新聞は何なのでしょうか。
 それこそ、「政策はそっちのけで、風やブームばかりを報じるマスコミがいかに多いことか」としか言いようがありません。
 この社説が「批判」している「熱狂の政治」に陥るのを防ぐためには、朝日新聞をを初めとする商業マスコミの「報道という名の政治宣伝」を信じない、という事が必須だと言わざるをえないでしょう。