当ブログにコメントされる際の注意(?)

 これまで、当ブログに関するコメントに関する記載はしていませんでした。理由として、スパム以外にこのような無名のブログにわざわざ削除対象になるようなコメントをしてくる人などいない、と思っていたのがあります。
 ところが、昨日の夕方、「反戦・平和」を主張しているブログに、無差別に「非武装による平和はありえない」という趣旨(?)のコピペをコメントしてまわる輩が現れました。当ブログでは既に、軍事力によって侵略は防げる?にて回答済み(?)の話題なのですが、色々な意味で「適切な」水準だったので、晒してみることにしました。
 なお、このような対応をするのは今回が最初で最後です。今後、類似の行為だと私が判断したコメントは、即刻削除します。

9条原理主義のみなさんに一度聞いてみたい疑問がある。
彼らの歴史認識では、大東亜戦争の日本は絶対悪のはず。
極悪日本軍がなんの罪もないアジアの人々を殺しまくった、そういう認識を持っている人が多いだろう。
そこで聞きたいのだが、もし中国の蒋介石が「戦争のできない体制」を作っていれば日本鬼子は侵略してこなかったと考えてるのだろうか。

 「過去に軍備の弱い国に異常な侵略者が攻めてきた例はどうなのか」という質問のようです。しかし、このような例を何万件挙げたところで、「なら軍備があれば侵略は防げた。やはり憲法9条はだめだ」という結論は導けません。
 ちょうどこの方は1930年代の中国を挙げています。しかし、同時期にヨーロッパ最強の軍隊を有していたドイツが、10数年後にどうなったでしょうか。あと、東アジア最強の軍隊を誇った(?)国も同様です。
 ナチス・ドイツの例で分かるように、国単位では近隣最強でも、相手に連合軍を作って攻められると、最後には惨敗し、国を分割されるような目にあってしまうのです。つまり、今の日本が仮にアメリカ一国を超える軍事力を持ったとしても、アメリカ・イギリス・ロシア・中国が連合して攻めてきたら勝ち目はありません。
 つまり、「とんでもない理不尽な侵略を受ける危険性があるから」と言って軍事力を増強すると、世界全部を敵にまわしても勝てるほどの軍備が必要になってくるわけです。
 あと、当時の中国の状況ですが、蒋介石が強固な政権を持ち、統一した軍事力を持っていたわけではありません。内乱状態に近く、中には日本軍の後ろ盾を利用して自派を伸ばそうとした勢力もありました。そのあたりが侵略の足がかりになった、という側面も無視はできないと思います。もちろん、だからといって、「内乱で自国軍を引き込むような勢力があったから侵略は正当化される」などという事はありませんが。

あるいは、スペインに滅ぼされたインカ帝国。
インカ王アタワルパが「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定めていれば、滅ぼされる事はなかったと考えているのだろうか。
余談だが、インカ帝国は9条原理主義者が大好きな「平和的話し合い」で事を治めようとしている。
アタワルパを拉致されたインカ側は、ピサロの要求に従い「部屋を埋める量の黄金」を渡した。
しかし、アタワルパは処刑され、インカ帝国は滅ぼされた。
「侵攻」とか「占領」とか「征服」などという甘っちろいものではない。
ほぼ「絶滅」させられたのだ。

 これも同様。「侵略者に話し合いで解決できなかった例」というのも確かにいくらでもありました。だからと言って「なら強大な軍事力があれば侵略されない」となる論法は成立しません。また、実際に戦争の危険性があったにもかかわらず、交渉によって解決した例もいくらでもあります。
 たとえば、つい10年くらい前までは、「北朝鮮はいつ戦争を起こしてもおかしくない」と宣伝されていました。それがアメリカ元大統領が特使として訪れてから流れが変わり、今となっては、自民党の「サプライズ」に協力をする国家にまでなった、などという例もあります。
 あと、私はインカ帝国滅亡の歴史はよく知らないのですが、ちょっと検索をかけただけでも、「インカ帝国は完全平和主義を貫いて滅ぼされた」などという記述はどこにもありませんでした。色々な軍事的抵抗はあったみたいですね。気が向いたら、一度きちんと調べてみたいものです。

もしかすると、「戦争」でさえなければ「平和」である、と考えているのかもしれない。
愚かな敗北主義者達は「戦争するくらいなら降伏しろ」などと主張している。
それならば、日韓併合について批判できなくなりはしないか。
日本と大韓帝国は戦争などしていない。
日帝の悪政と搾取と文化的圧殺がいくら辛かろうと、「平和」であったのだろう?

 全体的に質の低い文章の中でも、特に非論理的な部分ですね。
私を含め、日韓併合を批判する人は「日本の侵略」を批判しているのであり、
侵略を受けた際の韓国の方策を「日韓併合」だと批判した人はいません。
 あと、理由も述べずに「戦争するなら降伏しろ」という主張を「愚かな敗北主義」などと言っていますが、となると、1945年の無条件降伏も「愚かな敗北主義」とやらなのでしょうか。もっとも、このような主張をする輩ですから、「やはり一億総玉砕まで戦うべきだった」と主張されるのかもしれませんが。

それとも、ここで例の「抵抗」が出てくるのだろうか?
「抵抗」運動があったから「平和」ではなかった、などと反論してきそうだ。
つまり、外国による侵略があった場合は、国軍による「戦争」ではなく市民として「抵抗」せよ、と訴えているのか。
義兵として決起し、ゲリラ戦を仕掛けよ、と。
進め一億、火の玉だ、と。
国民皆兵、玉と砕けよ、と。
恐ろしい人たちだなあ。

 これまた呆れた認識力の低さ。軍事力があろうと無かろうと、一度征服されれば、この人の言う「愚かな敗北主義」で降伏するか、抵抗するか、滅亡するくらいしか選択肢はありません(現代世界において、最後の可能性は相当ありえませんが)。抵抗している国としては、現在ではイラクが有名です。しかし、言うまでもなく、イラクは「軍備を否定し、もし征服を受けたらゲリラ的抵抗をする」と決めていたわけではありません。むしろイラクは、1970年代から90年代にかけ、隣国を侵略できるほどの軍事力を蓄えていたわけです。その軍事力が侵略を防ぐ効果があったと思っている人はほとんどいないでしょう。
 なお、降伏した後の「征服軍」への態度ですが、今のイラクでもわかるように、現代の征服軍は、形式的には「民主国家」を作り上げます。その体制を利用して、緩やかに征服国の影響から脱していく、という方策もありえるのではないでしょうか。実際、フィリピンはそのような形をとりつつあるように見えます。
 いずれにせよ私は、そのような「征服状態」におちいったら、可能な限り平和的な方法で征服状態でなくなるよう、努力していきたいものです。少なくとも、「征服国」の政府が「お前らの国の憲法を我が国の現状に適したように変えろ」と言われた時に、その意を受けて(?)匿名で他人のブログに低レベルな「改憲主張」をコピペでコメントしまくるような、恥知らずな「属国民」にはなりたいくないものです。

 ところで、この「晒し」の対象になった輩は、文章の論理性にしても、無差別にコピペした文章を張りまくるという行為にしても、存在しないメルアドを使うという行為にせよ、あらゆる意味で最低の人物です。
 しかし、それはこの輩の論理力や人格に問題があるだけです。私が日常接する人でも、改憲をはじめ、「右」の思想を持つ人はいます。そのような思想には私はもちろん賛同しません。しかし、それ以外の点では尊敬に値する人は何人もいます。そのような人々は、今回晒した輩のような情けない方法で改憲主張をしたりはしません。もしこの輩がこの文章を読んでいるならば、このような行いは、そのような「常識のある改憲論者」にとっても迷惑だという事を自覚してほしいものです。

当ブログにコメントされる際の注意(?)」への4件のフィードバック

  1. OONOさん、はじめまして。
    私のブログにも、それ、書き込まれていました。
    即削除しましたが。
    いやあ、それにしても、痛快!大笑いさせていただきました。
    まさにおっしゃるとおりですね。
    >>そのような「常識のある改憲論者」にとっても迷惑だという事を自覚してほしいものです。
    私の見解はちょっと違っています。
    改憲論者は、改憲を口にした時点で「良識」にかけています。
    そういう人間の「常識」がはたして信頼におけるものかどうか・・・。
    すくなくとも、一般的な「戦争に行くのは絶対に嫌だ」という気持ちがあるなら、改憲を主張できないと思うのですが。
    まあ、改憲論者の中には「戦争にはプロが行くのだから、自分はいかないもんね」と思っている人間が多いので、「常識があっても改憲を主張できる」のかもしれませんね。
    「戦争にはプロが行くのだから」と考える時点で、既に「認識」に問題があるとは思いますが。

  2. U2QMS 様
    コメント有難うございました。
    楽しんでいただけて幸いです。
    おっしゃる通り、現在、改憲を推進している自民党政府・財界・マスコミなどの連中は、いずれも自分や家族がが戦場に行かない事を前提に「日本も戦争に加わるべきだ」などと主張しています。
    ただ、その影響を受けて改憲容認となった普通の人々につきましては、前提が違うのでは、と思っています。したがってあのような書き方をしました。
    いずれ、この件については、きちんと書きたいとは思っています。
    それでは。

  3. 浦部法穂・名古屋大学教授によれば、「自民党や民主党の新憲法制定論は『憲法制定権力』のさん奪行為だ。『憲法制定権力』は『国民』にあるのであって、『国民の代表』に委ねられているのではない」、「新憲法制定はふつう革命や戦争、内乱などで統治体制の根本的変革があったときに行われる。いまの日本で『新憲法制定』を唱えることは、統治体制の根本的変更を今の権力者が企てている証拠だ」、「自民党の新憲法案では『戦争の放棄』ではなく『(戦争を)行わないこととする』と変えられている。法律用語で『行わないこととする』は、行う場合もあるという意味になる」、「『公共の福祉』を『公益および公の秩序』と書き換えているが、まったく意味が違ってくる」ということだそうです。

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