原発推進報道と重なるもの

 東電の原発に関する問題は、発生後半月経っても悪化するばかりで収束する気配がありません。原子炉の冷却には多くの人・資源が投入されていますが、被曝者の数は増える一方です。
 半径20キロ圏は人が入れなくなり、さらにそれより離れた地域も、「屋内退避」が「自主避難勧告」になるなど、状況は悪化する一方です。それに加え、陸地に飛び散った放射性物質により、農業が多大な被害を受けています。また、現在はあまり報じられていませんが、海中にもかなりの放射性物質が流れているとの事で、これが環境や漁業にどのような影響を与えるかも心配です。

 ところが、報道を見ると、それらの被害を報じつつ、「原発は安全性を強化して推進し続けるべき」という論調が多々見られます。28日の日経新聞などは、海外の新聞で、「原発推進」の主張をしている社説ばかりを引用して、「世界の声」みたいに報じていました。
 もちろん、これらの報道機関は、以前から原発推進の立場を取っていました。それを考えれば「一貫性がある」ようにも思えます。しかしながら、当時と今では前提条件が全く異なります。
 2011年3月11日以前は、「日本の原発は絶対に大丈夫」という「安全神話」が存在しました。それが推進論の土台となっていたわけです。しかし、もはや「安全神話」というのが戯言でしかなかった事は明白になっています。
 にも関わらず、いまだに福島原発冷却の見込みすら立っていない中で、これまでと同じ前提で原発推進論が報じられているのです。

 このような状況を見ていたら、70年前の事を想起してしまいました。
 あの戦争でも、最初は、負けないと思ったから中国侵略を始めたわけでしょう。実際、それまで「大日本帝国軍」が成立して以来、敗戦経験はほとんどありませんでした。
 しかし、その勢いが止まり、連戦連敗になっても、戦争は続けられました。そしてマスコミもその方針に全面的に賛同していました。その論拠(?)の一つに「最後は神風が吹いて逆転する」というのがありました。実際に「大日本帝国軍」は負けているにも関わらず、まだ「不敗神話」にしがみついて戦争を推進していたわけです。
 そして1945年には敗戦が確定しているにも関わらず、「講和条件を有利にするために一定の戦果を挙げるまで」と言って戦争を続け、その間に広島と長崎に代表されるように、何十万もの一般市民が惨殺されたわけです。
 現在の、崩壊した「安全神話」にしがみつき続ける姿は、「不敗神話」が崩壊した後もそれに頼り続けた、かつての姿はよく似ています。
 結局、、為政者も商業マスコミも、本質的な所は70年前から進歩していない、という事なのでしょう。

 ちなみに、現在での推進論で一番目立つのは、「既に日本の電力の1/4が原発で賄われているから」というのがあります。それに関連して、29日の日経新聞では、「ヨーロッパでも反原発運動が盛んになったが、既に3割が原発に依存しているだけに全廃は難しい」などと論じていました。
 おそらくは、日本の原発を推進するために、「ヨーロッパでも原発は廃止できない」という印象を持たせたくて書いた記事だと思われます。しかしながら、一面で自国の原発の危機的状況を報じながら、国際面で地球の反対側で起きている原発反対運動を皮肉っている、という姿は道化としか言いようがありません。
 だいたい、「既に大きいシェアを獲得しているのだから廃止できない」というのならば、フロンガスやアスベストも、「既に使われている」という理由で存続しているでしょう。

 現代の視点から70年前を振り返った際に、「なぜあのような無謀な戦争に突入したのか」「なぜ敗色濃厚になっても降伏せずに犠牲者を増やしたのか」という疑問が提示されます。
 同様に、「なぜ日本は2011年3月に『安全神話』が崩壊したにも関わらず、その後も原発を推進し続け、さらなる環境破壊を引き起こしたか」などという疑問が後世の歴史家に提示されるような未来にならないことを、強く願っています。