「経済は一流」という遺物

 1980年代の新聞でよく見かけた標語に「日本は経済は一流、政治は三流」というものがありました。「経済大国になった事から分かるように、日本はの経済は一流だが、不祥事を起こす事からも分かるように政治家は三流だ」という主張です。
 実際にGNP(当時)などで示される指標は好調でした。一方の政治のほうは汚職事件などがよく報じられていました。特に、その代表格で刑事事件で有罪判決が下された故・田中角栄氏が相変わらず政権政党である自民党を牛耳っている、というような状況でした。
 それゆえに、この標語は当時の多くの人に信じられていたようです。

 この思想が拡大され、「政治家・官僚の主張・施策には間違いもあるが、日本経済を一流にした財界の行動・主張は正しい」という事が常識であるかのように報じられました。
 そのため、最も収益力があったトヨタが採用したシステムは、完璧に正しいものであるかのように伝えられました。また、メザシが好物だった経団連会長は、庶民の救世主であるかのようにもてはやされました。
 そして、「政治や国営および公営事業は間違いだ。民間企業のやり方を導入すべきだ」「財界の主張に従えば間違いない」というような「世論」が形成されました。これらの根底には「政治は三流だが経済は一流」という理念があったと思われます。

 日本が「世界に誇る経済大国」だった1980年代までなら、この標語にも有効性があったのかもしれません。
 ところが、その後、日本経済はバブル崩壊とともに「失われた20年」に突入しました。その厳しい時期において、「経済は一流」と喧伝された財界は、何一つ「一流」な所を見せることができませんでした。
 そして、彼らの行った方策は、「働く人たちに損をさせて、自分たちだけは利益を維持する」というものでした。
 その方針のもと、法人税・富裕層の所得税減税・証券優遇税制などが実施されました。さらに、リストラ・賃下げ・雇用の不安定化が横行しました。その結果、日本は「先進国」では、給与所得者の収入が年々減り続ける国になってしまいました。(参考資料)

 このような状態ではもはや、「経済は一流」などと言えるわけがありません。もはや過去の遺物だとしか言いようがないでしょう。ところが、なぜか「政治は三流、経済は一流」という理念および、それを前提とした報道は、いまでも普通に報じられています。
 たとえば、以前にも書きましたが、政治家の言動に対しては時には感情的な言葉を使ってまで批判するのに、財界有力者の発言はどんな破綻した内容でも無批判に載せます。
 また、「経済は一流」を前提にした、「民営化すれば何でも良くなる」「『民』は『官』より優れている」という報道が流され続けています。
 実際には、あれだけ大騒ぎした郵政民営化がもたらしたのは、過疎地の郵便局の閉鎖・遅配の増加・投信販売購入者の損失、などというものでしかありませんでした。
 また、国鉄は「分割・民営化」によって安全を軽視するようになり、福知山線事故などで多くの人が亡くなっています。
 さらに、大王製紙やオリンパスのような経営者の異常行動や、大手企業の偽装請負・労働者酷使による過労死など、「民間企業」の様々な問題点が明るみになっています。
 最近では大阪市で、「成果主義の手法を用いて学校教育をやる」などという方針が発表されました。「民」の方策の誤りの中でも、成果主義は特に有名で、富士通を筆頭に多数の失敗例が存在していいます。しかし、そのような事実を加味した報道は行われません。
 このように、現実を見ずに、「経済は一流(=私企業のやることは正しい)」というとっくの昔に通用しなくなった標語を前提に論が組み立てられているのです。
 商業マスコミの使う宣伝文句によく「新聞を読めば世の中がわかるようになる」というのがあります。しかしながら、このように「30年前の遺物」に拘泥した報道を見ていると、むしろ「新聞を読むと現実の世の中が理解できなくなる」というほうが正しいのでは、と思えてしまいます。